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ネーミングライツ
僕の趣味はバドミントン
高校生までわりとガチめにやっていて10年以上やめてそれからまた少時やったけどまた最近はできてない。
始まりは小学五年生。ソフトボールがやりたかった。当時の少年団は親ありきで僕は親の仕事の関係で断念、なんなら少年団全て道は閉ざされていた。
好きなことを好きなだけできている友達が羨ましくてしかたなかった。
ある日友達とバドミントンの先生がお店にやってきた。
できたばかりの少年団だった。
仲の良かった友達が多数入団したことで僕もやりたかったがシンプルに諦めていた。
そんな中友達がうちの親にバドミントンたくやにもさせてくれと頼んだ。
続いて先生が親御さんには迷惑かけませんのでと続いた。
僕はいつの間にかバドミントンを始めることになった。
いや、始められることになった。
楽しさと興味で基礎なんて分からないまますぐに上手くなっているのが自分でもわかった。
でもみんなは辞めていった。
中学生になった。
不運にもバドミントン部はなかった。
ただ部活動はさせてもらえなかった。
僕に選択肢はなくバドミントンを続けた。
社会人のクラブで夜羽を打っていた。
2年生の時に試合に出たいと校長先生にお願いした。
お前みたいな部活もしてない奴が試合に出ると学校の顔に泥を塗るダメだと言われた。
ギリギリまで味方についていた先生も校長の一声で手のひらを返した。
社会を学んだ。
時が過ぎ受験が近づいた時キセキがおきた。
鹿児島で10連覇以上している高校から声がかかった。
校内放送で急に呼ばれ僕と校長は驚いていた。
校長は言った、なぜこの子なんですか?他にいるはずなのに、と。
僕は心の中で共感とやってやったぞ感を感じていた。
そこから人生が大きく変わった。
後に当たり前だが僕の話は大人の事情が大きく絡んでいた、ただ僕は僕を拾ってくれた監督に絶対恩返しするんだとずっと思っていたし今も思っている。
入部当時は地獄だった。ドラマのように「お前下手だから一緒にやりたくない。」と普通に同級生から言われたのはさすがに忘れられない。
ただ言い返せないほどに僕はただ1人ド下手くそだった。
正直才能もなかった。
ただ諦めの悪さだけは負けたくなかった。
1年生の間は風呂に入っている間すらトレーニングしていた。もちろん練習中はトレーニングすらビリだった。
しかしながら基礎を知らなかったら僕はセンスはないにしろ強くなっていることを感じていた、下手なりにね。
1年の秋の新人戦メンバーに選んでもらった。レギュラーでは無いため準決勝まで主力が体力を温存するためのコマだった。それでも嬉しかった。
連覇していた歴史は1つ上の代で止まった。
負けた。それも3-0で。
僕は世の中は結果が全てだということを学んだ。
結果が悪い時は必ず過程が悪い。
結果がいい時はキセキもある。
これはこの時感じたことだ。
その後僕達の代は優勝旗を取り返したが僕個人は決勝で負けた、結果みんなに連れて行ってもらった試合となった。僕は弱かったし成果で恩は返せなかった。
限られた時間はあっという間に過ぎ去り僕はバドミントンを辞めざるをえなくなった。
この仕事は趣味なんてできるような労働環境ではなかった。成人式すら行かせて貰えない時代だった。
不思議なもので地元に戻りまたバドミントンを少しやった。
コロナが来てまたやめた。
そして今回この話がやってきた。
実はこの話を頂いた方は僕の小中学生の恩人で小さい頃の僕のスターでそれでいて開業時にもたくさんのご紹介を頂き今も尚まだよくして頂いている一生頭が上がらない僕にとって大きな存在だ。
僕にたくさんの喜びと学びを与えてくれたバドミントンに恩返しできるチャンスをもらえた。
それがまたおまけ付きだと言うから恩は返しきれないようできてるんだと気付かされる。
話は変わるが先日こんなことがあった。
実は上記した高校の時の監督は17年間ずっとお店に来てくれている。
僕がこの仕事を始める時監督以外の全員が僕にこういった。
お前は辞めるお前が1番初めにやめる。
監督はこういった。
お前が切れるようになったらお前のとこにずっと行く。
監督は島に移動になっても大隅に移動になっても、僕が指宿に戻ってもずっと来てくれている。
人として勝てるはずがない。
そんな監督の娘さんが結婚式だった。
もちろんセットさせて頂いた。朝は逆算すると5時だった。監督はわざわざそんな時も指宿まで来てくれて髪を整え式にむかった。
帰り際お前と経営の話してるのまじで楽しい!楽しいわほんとにといって出かけた。娘さんの結婚式なのにね笑これで経営もっとちゃんとしないといけなくなりましたよ。
うちのネット販売の会社𝐂𝐡𝐞𝐞𝐫𝐬の経営理念は【恩返し】少し返せると思ってたけどやっぱり完全には返させて貰えそうにはなさそうだ。